主日の福音

2026年8月16日 【年間第二十主日 マタイ15:21-28】

今日の福音に「カナン」という地名が出てきました。創世記の記述からシリヤ・パレスチナの地中海沿岸地帯、特にフェニキヤ地方の土地とその住民を指すと考えてもよいでしょう(創世記10:19参照)。当然のことながら彼等には固有の神が複数いました。その中にはバアルがいたのです。

バアルは農耕の神であると同時に破壊の神でもあります。発掘された像やレリーフでは右手におそらく農耕具を象徴する棍棒、左手におそらく稲妻を象徴する槍を握る戦士としてかたち作られています。バアルと聞くとすぐに預言者エリヤとバアルの預言者たちとの争いが頭に浮かんできます(列王記上18:1-40)。この争いの背景は雨乞いを通じた神対神の力比べとまことの神がどちらであるかを証明することにありました。

さて、カナンの女が娘の治癒を懇願することに対して「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。」とあります(15:23a)。イエス様にしてはいささか冷たい態度のように思えます。

しかし前述したエリヤとバアルの預言者たちの戦いを前にした出来事を思い出したいものです。実にカナンの女とは異邦人というだけに留まらず敵対する側の者であったということです。

預言者エリヤはバアルに仕えているイスラエルの民に近づきどちらの側に付くかを考え、そのようにするように命じました(列王記上18:21abc)。これに対して「民はひと言も答えなかった」とあります(列王記上18:21e)。

イエス様の「お答えにならなかった」をヘブライ語に訳すると状況から考えればこの箇所に行き着きます。であればイエス様の言葉は単なる拒絶ではなく、異邦の神を信じる彼女に嫌悪感すら含まれていたということです。

イエス様が無視しているにもかかわらず女はイエス様に付きまといました。娘の治癒を願うのですから彼女の行いは当然と言えば当然です。彼女の扱いに困ったのか「そこで、弟子たちが(イエス様に)近寄って来て願った」とあります(15:23b)。「この近寄って来て」をヘブライ語に訳すると詩編が思い起こされます。そこには、

分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな(詩編32:9)。

とあります。

これを踏まえると異国の者に娘の治癒を願うということから考えても女の願い方は尋常なものではなかったと思われます。

異邦人の間との線引きが厳しく引かれていた時代にイエス様の態度は当然でした。同胞内に於いても宗教的にけがれがうつることに忌避感が強くもたれていた時代です(15:2, 20参照)。それゆえに弟子たちはイエス様に「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」と願ったのでしょう(15:23c)。

ここで「追い払う」をヘブライ語に訳すると哀歌が思い起こされます。そこには、

わたしたちは自らの道を探し求めて/主に立ち帰ろう(哀歌3:40)。

とあります。

ここでの「立ち帰ろう」がそれにあたります。哀歌とはその名の通りユダ王国の滅亡とバビロン捕囚による惨状を嘆いた内容となっています。

であれば福音記者マタイは弟子の言葉に“このかわいそうな女をまことの神に立ち帰えらせてください”といったイエス様への願いを込めていると思われます。引用した節の後に「わたしたちは、背き逆らいました。あなたは、お赦しになりませんでした。」とあります(哀歌3:40)。しかしイエス様はまことの神様を礼拝せず生きてきたこの女を赦されたのです。それゆえに結果として癒しの御業をなされたと思われます(15:28)。

同じようなことが「叫びながら」という言葉に織り込まれていると考えられます。これをヘブライ語に訳すると複数の詩編が思い起こされます。その主だった内容には共通点が見られます。それぞれの原語の使われ方から見ると以下のように分けられるもののほぼ同じ内容であると言えます。

  1. 苦難の中にあって主に助けを求めることによって救われる。主に寄り頼むものは裏切られない(詩編22:6; 107:13, 19)。
  2. 主なる神は御自分に助けを求めるのであれば、その人の叫びを聞き入れ、救い出してくださる。それゆえ神様に声を上げようではないか(詩編34:18; 77:2; 107;6, 28)。
  3. .主なる神は御自分の義に生きる者や慈しみの中に生きる人の叫びを聞き、そこから解き放ってくださる。すぐ近くに神様はおられることから神は憐れみをもって聞き入れてくださる(詩編4:2, 4; 17:6; 18:7; 27:7; 30:9; 50:15; 55:17; 66:17; 80:19; 86:3, 7; 102:3; 116:4; 118:5; 119:46; 120:1; 138:3; 141:4; 145:18)。

イエス様はカナンの女が娘の治癒を懇願することに対して何も答えませんでした(15:23a)。確かにイエス様にしてはいささか冷淡な態度であったかのように思われます。

しかしイエス様の時代では異邦人との間では厳しく線引きがなされていました。また同胞に於いてもけがれがうつることを避けるために清浄規定が律法として厳しく残っていたくらいです(15:2, 20)。したがってイエス様の態度は当然のことであったと思われます。

それでもあきらめきれずおそらく執拗しつように求める女に対して「弟子たちが(イエス様に)近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。』」とあります(15:23c)。ここに娘のためになり振り構わぬ女の必死さを見て取ることができます。結果としてこの女の願い通りにイエス様は娘を癒されました(15:28cd参照)。このことの伏線を福音記者マタイは哀歌や詩編を踏まえて「追い払って」「叫びながら」という弟子たちの言葉に織り込んでいるのではないでしょうか。

福音書とは事実だけではなく、福音記者が事実と旧約聖書に基づき脚色した面もあるということを忘れてはなりません。

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