今日の聖書箇所「『二人の息子』のたとえ」はカトリックのフランシスコ会訳聖書の解説によれば、
とあります。要するに写本による違いが本当の内容を分からなくしてしまっているということです。そのため、たとえ話のポイントから考えてみましょう。
イエス様はたとえを話し終えられた後、
はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう(21:31c)。
なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった(21:32)。
と語られました。ここから考えても神の国に入るためには洗礼者ヨハネの言葉を“考え直して信じること”が求められていることは明らかです。この言葉は同じ話の中で二回見られることから重要な意味をもっていると言えます。
では洗礼者ヨハネが示した「義の道」とは何を意味するのでしょうか。この言葉は明らかに福音記者マタイの創作です。なぜなら「義の道」なる言葉自体がイザヤの預言はおろか旧約聖書には見られないからです。
おそらく引用元とされるイザヤの“荒れ野に備える主のための道”をマタイは「義の道」として書き替えたと考えられます。これを含む箇所を直訳すると“主の道を荒れ野で振り向け”と強調した命令形で書かれています(イザヤ40:3)。ということは「義の道」であれ「主の道」であれ振り返ること、即ち、考え直すことが求められるということです。
この言葉は福音書の中でマタイにしか使われていません(21:29, 32; 27:3)。またこの言葉をヘブライ語に訳すると創世記が思い起こされます。そこには、
地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた(創世記6:6)。
主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」(創世記6:7)
とあります。ここで「後悔する」と訳された言葉がそれにあたります。これを踏まえて考えてみましょう。
イエス様は神様を後悔させないことを望まれていると考えられます。神様の望みとは洗礼者ヨハネやイエス様の言葉にあるように天・神の国に入るために悔い改めることです(3:2, 8, 11, 12; 4:17; 11:21; 12:41; 13:15)。この「悔い改め」に相当する言葉はヘブライ語には見られません。このことを表現しようとする場合、旧約聖書では主・神に「立ち帰る」という言葉を使います。
そこでこの言葉と「道」が同時に使われている箇所を考えるとエゼキエルの預言の二箇所が思い起こされます。そこには、
それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ(エゼキエル18:30)。
彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか(エゼキエル33:11)。
とあります。
神様の御心は「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」という言葉に集約されていると言えるでしょう(エゼキエル18:29)。また神様は罪人に「もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、- 中略 -、彼は必ず生きる。死ぬことはない。」と言われます(エゼキエル33:15-16)。つまり神様の言葉にあるように「わたし(神様)は生きている」からこそ立ち帰る時(エゼキエル18:3a;33:11a)、即ち、悔い改める時を問わないのです。
こうしたことを踏まえイエス様は隣人や兄弟、そして「自分の過ちについてとやかく言う」前に(哀歌3:39)、「義の道」を考え直すことを求めておられるのではないでしょうか。神様が求められるように今の自分を悔い改めるのなら神様は御自分への道を示されるのです。まさにイザヤの預言にあるように、
神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる(イザヤ55:7)。
と言えるでしょう。