今日の福音でイエス様は弟子たちに「『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」とあります(16:13)。いろいろな返答が出るなかで「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答え(まし)た」(16:16)。ペトロの返答を聞いた後、「すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ』」と続きます(16:17)。
この箇所を直訳すると“イエスは答えて彼に言った。幸いなるかな、シモン・バルヨナよ。なぜならあなたの血肉ではなく、それ(イエス様が生ける神の子であること)は私の天の父が啓示したからだ。”となります。新共同訳と比較すると二点の相違に気付きます。
まず「人間」と訳された言葉は原語では“血と肉”となっています。次に「現わした」と訳された言葉は原語では「分離」と「覆う」を意味する二つの言葉で成り立っています。つまり「ベールをはがす」という原意から“暴露する”や“啓示する”を意味すると考えられるのです。このことが聖書的に何を意味しているのか考えてみたいものです。
これらの単語をヘブライ語に訳して、同時に使われている箇所を旧約聖書に求めたいところですが、まず“血と肉”という表現を考えると旧約聖書には見られません。ということはヘブライ語的ではなくギリシア語的な表現であるということです。そこで第二正典(旧約聖書続編)にそれを求めるとシラ書が思い起こされます。そこには、
枝先に揺れる葉も、/散ってはまた芽生え出る。血と肉である人間の世代も、/ひとつが終われば、他のものが生まれる(シラ14:18)。
とあります。
福音書で「人間」と訳された言葉がここでは原語通りに「血と肉」と二つの単語で訳出しされています。これを踏まえるとたとえ何世代にわたったとしても人間的な理解ではイエス様が「生ける神の子」であることを理解できないということが込められていると考えられます。
現代では岩下壮一が「信仰とは理性が承認することであり証明することではない」と述べています。聖書的に表現すればイザヤの預言にある「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」ということでしょう(イザヤ7:9b)。信じることがなければ時代を越えてイエス様が「生ける神の子」であることを宣べ伝え続けていくことができないのです。
*岩下壮一『カトリックの信仰』講談社学術文庫、2001年、56頁。
次に「現した」をヘブライ語に訳するとイザヤの預言が思い起こされます。そこには、
主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される(イザヤ40:5)。
とあります。これはバビロン捕囚から解放され、故国に帰還することについての預言です。ここで「肉なる者」とありますが、これは先程の「肉」をヘブライ語に訳したものに相当します。この預言は、
慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる(イザヤ40:1)。
から始まります。神様がこのように言われる理由は「わたしの民」を慰める者が現れることを予見しているからです。そして彼のことについて具体的に、
高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神(イザヤ40:9)
という節に見出せます。
つまりここで繰り返される「良い知らせをシオン*・エルサレムに伝える者」にイスラエルの民すべてにとって神様に代わる慰め主、即ち、イエス様を重ねることができると言えます。またその「良い知らせ」こそ福音であると言えるでしょう。
* シオンとは元来、エルサレム北東部に位置したソロモンの神殿の丘を示すものであった(詩編50:2; 132:13)、やがてエルサレム全市、及び、エルサレムの全住民が「シオン」と呼ばれるようになった(詩編14:7; 147:12)。
この話の結びとしてこのような者が、
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる(イザヤ40:11)。
と預言されています。
ここでも“羊飼いとしての主”にイエス様を読み込むことができるでしょう。つまりイエス様が生ける神の子であることはペトロを通じて天の父が啓示されたと言えるのです。イエス様の時代にあって人数として数えられなかった子供も女性も共にイエス様は神様のところ、即ち、天の国に導かれるのです。このことが一番初めに引用した「主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。」という言葉に読み込めるように思えます(イザヤ40:5a)。
今日のイエス様の言葉はイザヤの預言に於けるバビロン捕囚からの解放の希望の預言を踏まえていると考えられます。神様の救いがイエス様として具体的に啓示されたのです。シラ書を踏まえれば福音は時代によって人間的な解釈が繰り返し為されてよいものではありません。福音記者マタイはこのようなことを「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ』」というイエス様の言葉に込めているのではないでしょうか(16:17c)。