主日の福音

2026年8月2日 【年間第十八主日 マタイ14:13-21】

イエス様の教えを聞こうとして集まった大勢の群衆が人里離れた所に集まったものの、弟子たちは群衆が空腹であることに不安を抱きました。そこでマタイのみに群衆に食べ物を買いに「行かせることはない」というイエス様の一言が見られます(14:16b)。これをヘブライ語に訳するとイザヤの預言が思い起こされます。そこには、

イスラエルの聖なる神/あなたを贖う主はこう言われる。わたしは主、あなたの神/わたしはあなたを教えて力をもたせ/あなたを導いて道を行かせる(イザヤ48:17)。

とあります。

ここでは否定形ではなく「行かせる」と肯定形で表現されています。この言葉はバビロン捕囚からの解放が預言通りに成し遂げられるという内容です。おそらくイエス様はこのイザヤの箇所に基づいて否定形で「行かせることはない」と言われたのではないかと思われます。なぜならこの節の直前では、

わたしのもとに近づいて、聞くがよい。わたしは初めから、ひそかに語ったことはない。事の起こるとき、わたしは常にそこにいる。今、主である神はわたしを遣わし/その霊を与えてくださった(イザヤ48:16)。

とあるからです。これがどのように関係するのでしょうか。

ここでの“主である神が遣わしたわたし”にイエス様は御自分を重ねていると考えられます。つまりイエス様は神様から遣わされ、神様の霊を受けた存在であるということです。であれば御自分の近くに群衆が集まっているのは当然であり、そうであるべきです。それによって群衆は御言葉を聞くばかりではなく、“事の起こり”、即ち、ここでは空腹からの解放を経験することになるのです。ですからイエス様は弟子たちに向けて群衆に食べ物を買いに「行かせることはない」と言われたのだと思われます。

イザヤの預言によればバビロン捕囚は民族の危機的状況を通じて民の悔い改めと神様への立ち帰りを求めるための計らいでもありました*。「人里離れた所に退かれた」イエス様のことを聞き、「方々の町から歩いていて(イエス様)」の後を追った群衆は夕暮れになるまでイエス様と共におられました。このことから空腹という難儀に陥るのは自然なことです(14:13, 15)。また彼等がその信仰ゆえに苦しむ姿を見てイエス様がこのような「大勢の群衆を見て深く憐み」を感じられたことは当然であると言えます(14:14)。

では、イエス様は群衆の苦難を通じて何を憐れまれたのでしょうか。イエス様は「その(群衆の)中の病人をいやされた」とあることから、彼等が抱えていた何かしか病を憐れんだのかも知れません(同上)。ここで「深く憐れむ」と訳されていますが原語には「深く」という副詞は見られず、一語で表現されています。この「憐れむ」をヘブライ語に訳すると詩編とヨエルの預言が思い起こされます。

まず詩編には、

主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み(詩編111:4)

とあります。

ここでも「深く憐れみ」と訳されていますが、原語では一語です。この続きには「主を畏れる人に糧を与え/契約をとこしえに御心に留め」とあります(詩編111:5)。これらを踏まえて考えると夕暮れになるまで共にいた群衆はイエス様に相当な敬意をもっていたと考えられます。まさに「主を畏れる人」であったと言えるでしょう。

その彼等のために「糧を与え(る)」こと、即ち、供食は彼等が常に唱えていた詩編が現実のものとなった出来事なのです。このように考えるとイエス様が「大勢の群衆を見て深く憐み」を持たれたことは供食物語の前振りであったと考えられるのではないでしょうか。

次にヨエルの預言では、

衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるからだ(ヨエル2:13)。

とあります。

ここでも「憐れみ深く」と訳されていますが、原語では先程の詩編と同じ言葉です。この節は「主の慈しみ」と題された最初の部分にあたり、「立ち帰れ」という同じ言葉が繰り返されています(ヨエル2:12,13)。その理由として続く節で同じ言葉もって「主が思い直され」るかも知れないことから(ヨエル2:14)、悔い改めを求めているのです。なぜなら神様の怒りと共に「主の日が来る、主の日が近づく。」とあるからです(ヨエル2:1)。

このことを踏まえるのならイエス様が「大勢の群衆を深く憐れまれた」のは食べ物や病のことだけではなく、このままでは彼等はやがて到来する「主の日」、即ち、終末に救いにあずれないと察したからだと思われます。なぜなら彼等は天の国を十分に理解していないからです。だからこそ終末に於いて実現する天の国とそれが実現した暁には飢えることがないということを供食によって具体的に現わされたのだと思われます。


* イザヤの預言は異なる三人の著者の書によってまとめられていると考えられている。その区分は内容によって判別され1~39章までが第一イザヤ(預言者イザヤによるもの)、40~55章までが第二イザヤ(捕囚期、または捕囚期後の無名の預言者によるもの)、そして56~66章までが第三イザヤ(捕囚期、または捕囚期後の無名の預言者によるもの)によるものとされている。こうしたことから当該40章はユダ王国がアッシリアの脅威に晒されていた時代、また凋落を迎えていた時代のことであると考えられる。

TOP