今日の福音で舟に乗った弟子たちは「逆風のために波に悩まされて」いました(14:24)。ここで「逆風」と訳されていますが、原語から考えると自然現象だけのことではなく、イエス様に敵対する者の勢いが増していることの表象であるとも思われます。
このような状況で湖上を歩くイエス様を弟子たちは見ました(14:25参照)。この信じられない光景に弟子たちは恐れおののくものの(14:26参照)、ペトロだけは「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」とイエス様に願いました(14:28b)。それに応えて「イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。」と続きます(14:29-30)。
人間であるペトロがいくらイエス様を信じているとはいえ、同じことができるわけはありません。案の定、湖に沈みかけたペトロに「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。」とあります(14:31)。このイエス様の言動を改めて考えたいと思います。
まず「捕まえ」をヘブライ語に訳すると詩編の二箇所が思い起こされます。そこには、
あなたがわたしの右の手を取ってくださるので/常にわたしは御もとにとどまることができる(詩編73:23)。
あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる(詩編139:10)。
とあります。
これらを踏まえるとイエス様はペトロの右の手を取り、引き上げられたと考えられます。つまりどんなときでもイエス様は御自分を求めるのなら御許に留まらせてくださるということです。また「手」にはヘブライ語で“力”“強さ”という意味もあります。であればイエス様は神の独り子の力をもって逆境にあっても助けてくださるということがこの場面に込められているのではないでしょうか。
次にイエス様はペトロに「信仰の薄い者」と言い放ちますが、この表現は原語では一語です。これに相当するヘブライ語は見当たりませんが、反対の意味で“信仰のある人”と表現された詩編の節が思い起こされます。この詩編を踏まえてイエス様の言動を考えると単なる状況描写のように思える箇所の意味を理解できるのように思えます。
そこには、
主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え/人の子らの中から/信仰のある人は消え去りました(詩編12:2)。
主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り/傲慢な者には厳しく報いられる(詩編31:24)。
とあります。
これらの詩編を踏まえるとペトロの言葉は主の慈しみに生きる人が絶えたかのように思われる時代にあって神様の助けを切に求める叫びであるかのようにイエス様の耳には響いたのかも知れません。であればペトロが湖に沈みかけたことはイエス様の時代には神様を信じることなく、信仰がおろそかにされ、神様を信じない傲慢な者が多かったということです。
ペトロは「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』」と叫んだ。」とありますが(14:30)、この「沈む」と訳された言葉は新約聖書を通じてここにしか見られません。それゆえに福音記者マタイは信仰が薄くなってしまった者が多くなった時代に対する嘆きを沈みかけたペトロとその叫び声に重ね合わせているのではないでしょうか。そのペトロにイエス様は「なぜ疑ったのか」と言葉を続けられました。その理由を聖書的に考えてみましょう。
この「疑う」は新約聖書を通じてマタイで2回しか使われていない特徴的な言葉です(他28:17)。これに相当するヘブライ語は見当たりません。しかしラテン語聖書のエズラ記には、
恐れてはならない。疑ってはならない。神があなたたちの指導者であられるからである(エズラ〈ラテン語〉16:76)。
とあります。
イエス様は弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました(14:27bc)。ここで「わたしだ」と訳されていますが原語では出エジプト記で神様がモーセに御自分の名前を「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われたのと表現と同じです(出エジプト3:14a)。このことと引用したエズラ記を踏まえればイエス様は御自分が神であり指導者でもあることから恐れても疑ってもならないと言わんとされたと思われます。引用した節は「終末への主の僕の準備」と題された中にあります(エズラ〈ラテン語〉16:36-78)。
これを踏まえるとイエス様は群衆に終末についての話をされたものと考えられます。それにもかかわらず弟子たちはその言葉を十分に理解していなかったということが舟に乗っていた弟子たちの様子に表れているのかも知れません。
「そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。」と話は続きます(14:32)。この「静まった」をヘブライ語に訳すると詩編が思い起こされます。そこには、
彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った(詩編107:30)。
とあります。
この節の前にあるように「主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった」ことから目的に無事に着いたことでしょう(詩編107:29)。だからこそ「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」のです(14:33)。
弟子たちの乗った舟は「逆風のために波に悩まされていた」にもかかわらずイエス様は湖上を歩いていました。ペトロは同じようにできなかったことから「信仰の薄い者よ」と言われました。これは詩編を踏まえればどんな逆境にあっても神様やイエス様が助けてくださるということを信じ切れていないということを表していると考えられます。イエス様は「わたしだ」と自らが神であることを宣言されたと思われます。エズラ記を踏まえるとその神であるイエス様が天の国へ導いてくださるのです。まさにイエス様が天の国にたどり着くための導き手なのです。