主日の福音

2026年6月14日 【年間第十一主日 マタイ9:36~10:8】

今日の福音でイエス様が「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とありました(9:36)。ここでは「飼い主のいない羊」と訳されていますが、直訳すると“羊飼いをもっていない羊たち”となります。

この“羊飼い”をヘブライ語で考えるとイザヤとエレミヤの預言が思い起こされます。まずイザヤを考えるとそこには、

主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる(イザヤ40:11)。

とあります。この節によれば羊飼いである主なる神様の意図はバビロン捕囚からの解放と民族の信仰に基づくユダ王国の再興です。この預言に見られる程、ユダの民は捕囚によって信仰までもが塵尻ちりじりになってしまっていたのです。

またディアスポラ*のユダヤ人たち(離散したユダヤ人)のことを考えれば、本来、神様にとって同じ民族として一つの場所に集まるべきです。そしてそこで唯一の神を礼拝することが神様を信じる民のり方であると言えるでしょう。これは政治や武力によって実現するのではなく、主なる神の御力によって為されるということが預言された内容です。

次にエレミヤの預言には、

諸国の民よ、主の言葉を聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした方は彼を集め/羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」(エレミヤ31:10)

とあります。これも主なる神が捕囚の民を愛と慈しみのゆえに再び御自分の民としてユダから離れ去った者たちを集められることを語っています(エレミヤ31:1, 3)。ここでの羊飼いにイエス様を読み込むことができます。であれば主なる神の言葉、即ち、福音は「諸国の民」と表現される全世界に広く告げ知らせられるべきものと言えるでしょう。

実にイザヤやエレミヤの預言からバビロン捕囚や民族の離散はユダの民が神の民であることを忘れさせてしまうかのようなものであったことがうかがえます。つまり日常的に宗教的な儀礼にのっとた礼拝が相応ふさわしい場所で行えないことにより、神様の存在が彼等の中で徐々に色褪いろあせていった可能性が考えられるということです。信仰が薄くなってきたことはローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちも同じであったでしょう。まさに「主の言葉を聞け」とはそのような時代にあってイエス様の切なる思いだったと思われます。

イエス様は「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とありました(9:36)。イエス様はまさに羊飼いです。まずイザヤを踏まえればイエス様は民を集めて養い育て、神様の御許に導かれる方です(イザヤ40:11)。それは唯一の神を同じ場所で礼拝することが神様を信じる民のり方だからです。そのために町や村で恐れずに神様のしんの御旨である福音を宣教してきたと言えます。次にエレミヤを踏まえれば同じく羊飼いがその群れを守るようにイエス様は神様を信じる民を守られる方でもあります。それゆえに福音を全世界に広く告げ知らせようとされたのです(エレミヤ31:10;マタイ24:14)。

そして神様への道程みちのりは出エジプトの旅路とは異なり、「彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない」のです(エレミヤ31:9b)。その道標みちしるべとなるものが福音と言えます。しかし神様への信仰が廃れ、それを補うためのイエス様の御言葉も御業も等閑なおざりにされている現実を見たことからイエス様は「深く憐れまれた」、即ち、“断腸の思い”をもたれたと言えるでしょう。


* 「ディアスポラ」とはユダ王国から離散したユダヤ人たち(特にパレスチナ以外の地に移り住んでいるユダヤ人たち)の集合体を意味します。

 

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