主日の福音

2026年10月4日【年間第二十七主日 マタイ21:33-43】

たとえの中で「農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』」とありました(21:38)。この農夫たちの考え自体が明らかに律法で認められないことです。なぜなら相続は自分の子に譲るものであり、これが「嗣業」と呼ばれるものだからです。

この言葉をヘブライ語に訳し、それが律法との関係で使われた箇所を考えるとエゼキエルの預言が思い起こされます。そこには、

君主は民の嗣業を取り上げてはならない。彼らの所有地を奪ってはならない。自分の所有地は自分の子らに相続させねばならない。それは、わが民の一人でも、その所有地から追い立てられることがないためである(エゼキエル46:18)。

とあります。ここからも農夫たちの行為は見当外れであることが分かります。

しかしそこに「たとえ」の「たとえ」たる所以ゆえんがあると言えるでしょう。それを考えるために「相続させる」と訳された言葉を考えなければなりません。原語では能動態の使役形で使われています。

これと同じかたちで使われた動詞はゼカリヤの預言にも見られます。これが今後の話とどのように関係するのでしょうか。

ゼカリヤの預言には、

平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び/大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。わたしは、この民の残りの者に/これらすべてのものを受け継がせる(ゼカリア8:12)。

とあります。ここでの「受け継がせる」が「相続させる」に相当します。

ここで神様の恵みと慈しみ、そして実りをもたらす受け継ぐ土地は「この民の残りの者」に与えられるとあります。この「民」は何を意味するのでしょうか。「民」は民のことであり一般的な民族や人々を意味します。問題となるのは「残りの者」とは“何に対しての残り”かということです。この言葉は前の節でも、

しかし今、わたしはこの民の残りの者に対して/以前のようではない、と万軍の主は言われる(ゼカリア8:11)。

と使われています。これの節を踏まえれば「以前のようではない」という言葉にその答えを見出せるのではないかと考えられます。では以前に神様は民をどのように思い、彼等にどのように振る舞っていたのでしょうか。このことをこの章のはじめの、

万軍の主はこう言われる。わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ(ゼカリア8:2)。

から考えてみたいと思います。

本来なら神様はイスラエルの民全体を象徴するシオンに激しい熱情、また同時に憤りを伴う嫉ねたまんばかりの愛情を注がれるはずです。また神様から愛され、そしてその愛に生きる民はこの神様の愛に応こたえるべきです。しかし「以前」という言葉に着目すると、

以前には、人間の働きに報いはなく/家畜も、働きの報いに何の食も得なかった。出入りするにも/安全に敵から守られてはいなかった。わたしがすべての人を/互いに思うがままにさせておいたからだ(ゼカリア8:10)。

という人間を創造したことに対する痛悔の言葉が思い起こされます。神様にしてみれば御自分の愛に反して民が偶像礼拝をし続けることは耐え難いことであったでしょう。

しかしそのような民の中にあっても神様の愛に応こたえようとしている民、即ち、神の愛を受け入れながら生きている者たち、また生きようとしている者たちのことが「残りの者」と表現されていると考えられます。ではそれ以外の者とは「万軍の主の家である神殿の基礎が置かれ/再建が始まった」ことを通じて(ゼカリヤ8:9c)、新しい時代が始まったことを理解してない者のことであると考えられます。

神様は神殿の再建と共に偶像礼拝を止めて新しく御自分に生きようとすることを民に求めていました。そして、

主はこう言われる。わたしは再びシオンに来て/エルサレムの真ん中に住まう。エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ/万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる(ゼカリア8:3bc)。

と言われました。

しかし神様が民の中におられたとしても彼等は神様を等閑なおざりにして、自分たちの思いや考えを優先させてきたことは古代イスラエル史が物語っています。自分たちの中にいる神様をあたかも存在しないかのように扱うことが今日の福音書の中で農夫たちが「息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」という言葉で表現されているように思えます(21:39)。留意すべきことはこの息子だけが他の僕とは異なり、「ぶどう園の外にほうり」出されて殺されたことです(同上)。これは明らかに律法を踏まえた表現であると言えるでしょう。なぜなら律法によれば死刑に処せられる場合には、

主はモーセに言われた。「その男は必ず死刑に処せられる。共同体全体が宿営の外で彼を石で打ち殺さねばならない。」(民数記15:35)

とあるからです。このことを少し考えてみましょう。

「ぶどう園の外に」の「外に」をヘブライ語に訳すると引用した民数記の「宿営の外で」の「外で」に相当します。つまりこの息子は律法を守っていながらも、その律法に従って殺されてしまったということが込められていると言える考えられます。まさに家の主人である神様がぶどう園に送った息子とはイエス様のことです。

神様は御自分に反するイスラエルの民と雖いえども自ら救いの業に与あずからせるために預言者たちを立てました。それでも民は彼等を通じて語られる神様の言葉に耳を傾けるどころか、あまつさえ殺してしまうこともありました。それがイスラエルの歴史でもありました。このたとえにあるように「そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。」のです。
このたとえにあるようにイエス様がこの先、どのような最期さいごを迎えるかを私たちは知っています(21:37)。であれば神の独り子であるイエス様が辿たどる十字架への道行きとぶどう園、即ち、天の国に迎え入れられる人のことがゼカリアの預言を踏まえてたった一節の中に織り込まれていると言えるのではないでしょうか。

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