イエス様は「天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と言われました(13:49b-50)。一読すると神様の断罪により、罪ある者たちが天使たちによって地獄の業火に焼かれるといった恐怖を感じてしまいます。
まず「より分け」と訳された言葉はその意味合いから箴言が思い起こされます。そこには、
裁きの座に就いている王は/その目でどのような悪をもふるい分ける(箴言20:8)。
とあります。「裁きの座に就いている王」、即ち、神様の前にあってはどのような悪であれ、御自分の御心に適う善とは分けられます。
次に「炉の中に投げ込む」という表現は詩編やダニエルの預言に見られます。まず詩編には、
主よ、あなたが怒りを表されるとき/彼らは燃える炉に投げ込まれた者となり/怒りに呑み込まれ、炎になめ尽くされ(詩編21:10)
とあります。これを踏まえると神様の怒りに触れ、炉に投げ込まれた人間は最終的にその存在が痕跡すらも残されなくなるということです。それは神様との関係が完全に断たれるということでもあります。
ダニエルの預言には、
燃え盛る炉に投げ込まれる(ダニエル3:6; 6:11, 15, 20, 21, 24)
といった表現が何度も見られます。これはバビロニアで優遇されたダニエルが同僚からの嫉妬により、炉の中に投げ込まれるという刑に処せられたことに関して使われます。その背景は王が造った像を伏して拝むようという伝令に反した廉にあります。しかしダニエルは神様の守りによって身も衣服すらをも燃えることはありませんでした。
またイザヤの預言には
シオンで罪人は恐れ/神を無視する者はおののきに捕らえられた。我々のうち、誰が/焼き尽くす火の中にとどまりえようか。我々のうち、誰が/とこしえに燃える炉の中にとどまりえようか(イザヤ33:14)。
とあります。この背景にはユダに攻め込んできたアッシリアの王センナケリブがユダ王国の王ヒゼキヤに完全な降伏を求めたことがあります(列王記下18:13-17)。
ここでの「シオン」はユダの民を意味します。これを踏まえると神様の大いなる栄光、即ち、救いの御力を信じない者は「とこしえに燃える炉の中に」入れられ、燃え尽きるまで焼かれてしまうといったことが表現されていると言えます。
さらに「泣きわめいて」とありますが、これをヘブライ語で考えるとエレミヤの預言が思い起こされます。そこには、
裸の山々に声が聞こえる/イスラエルの子らの嘆き訴える声が。彼らはその道を曲げ/主なる神を忘れたからだ(エレミヤ3:21)。
とあります。ここで「嘆き訴える声」がそれにあたります。「裸の山々」とは神様を讃えることをしない多くの民を表象していると思われます。当初、神様は「『わが父と、お前はわたしを呼んでいる。わたしから離れることはあるまい』と」思っていました(エレミヤ3:19c)。しかしイスラエルの歴史は神様に対する背任の連続であったことを忘れてはなりません。
最後に「歯ぎしりするだろう」とありますが、これをヘブライ語で考えると詩編が思い起こされます。そこには、
主に従う人に向かって/主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが(詩編37:12)
とあります。ここで「牙をむく」と訳された言葉がそれにあたります。この節は神様に反する者の姿が書かれています。神様に従って生きようとする者は「災いがふりかかっても、うろたえることなく/飢饉が起こっても飽き足りていられる」のです(詩編37:19)。
今日のイエス様の言葉は一読すると悪い者の報いを語り、神様に従うべきことを恐ろし気な言葉で譬えているようにも読めます(13:49b-50)。確かに箴言に見られるように神様の目に誤魔化しは効きません。ダニエルの預言や詩編に見られるように正しく生きようとした者はたとえ「炉の中に投げ込」まれたとしても神様は守ってくださいます。
しかし神様は常に愛ゆえに悪い者が御自分に悔い改めて立ち帰ることを望まれているのです。このことがエレミヤの「この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない」という言葉に集約されていると言えるでしょう(エレミヤ36:7)。
また詩編では神様に従って生きようとする者に対して「無垢な人の生涯を/主は知っていてくださる。彼らはとこしえに嗣業を持つであろう」と詠っています(詩編37:18)。
神様の愛と憐れみを悟り、それにより神様に立ち帰ることが天の国に迎え入れられ、そこを自分の永遠の住まいとする条件となるのです。こうしたことを福音記者マタイはイエス様の言葉に込めているのではないでしょうか。