主日の福音

2026年7月19日 【年間第十六主日マタイ 13:24-43】

今日の福音でイエス様は「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」とたとえを語られました(13:24b-25)。天の国、即ち、神様の御許では神様にとって良いものしか存在し得ません。なぜならこの地上の存在はすべて神様による創造の御業の結果だからです(創世記1章参照)。このことは神様御自身が創られたものを「良しとされた」(創世記1:4, 10, 12, 18, 21, 25)、「それ(人間)は極めて良かった」という表現に表われています(創世記1:31)。このことを前提としてたとえ話が成り立っていると思われます。

さて、たとえの中で主人は良い種しか畑の中に蒔きませんでした。それゆえに毒麦が発芽したことに驚いた僕は「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」と主人に問うたのです(13:27bc)。「毒麦」という言葉はマタイ福音書にしか見られず、旧約聖書にも見られません。それゆえに福音記者マタイ固有の意味合いが込められているということです。この毒麦がもつ意味について考えてみましょう。

そもそも種を蒔くという行為自体が聖書的には良いことであり、その労苦や苦難は必ず報われるという理解が詩編から明らかです。そこには、

種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる(詩編126:6)。

とあります。

しかしたとえでは毒麦の生息という厄介なことが生じました。毒麦は小麦畑によく混生する植物で、小麦と同じ収穫時期に他の雑草と同じように小麦と共に収穫されるようです。なぜなら毒麦の若い頃は小麦と判別しづらく、根も地中の中で小麦のそれの中に入り組んでいるため、抜こうとすると麦もまた一緒に抜いてしまう危険性があるからです。このため生育途中ではそのままにしておくしかないようです。

農業に従事する人にとっては常識的なことを福音記者マタイのみがイエス様の言葉として書いていることに何か意味があると考えられます。毒麦が小麦によく似ていてるように人間も外面そとづらから良い者か悪い者か、また神様の御旨にかなう存在かそうでないかの見分けがつなかいのと同じであるのかも知れません。こうした問題がマタイ福音書が読まれていた共同体にはあったのではないでしょうか。

イエス様は先々の問題を毒麦にたとえているのかも知れません。本来、「眠っている間」、即ち、御自分がいない間であっても主なる神様の助けがあるはずです。この言葉をヘブライ語に訳すると詩編が思い起こされます。そこには、

身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます(詩編3:6)。

とあります。これを踏まえると福音を耳にし、信じた者たちであってもイエス様が近くにいないことによって神様からの支えが失われてしまうかのように陥ってしまう時が“眠っている間”として表現されているように思えます。つまり本当の意味で信仰に目覚めない者もいるということです。それゆえに原語では“眠る”を意味する二種類の言葉が繰り返されている詩編をもってたとえを語られていると考えられるのです。

このように“眠る”が強調された箇所を踏まえているとすれば、「眠っている間」に蒔かれた「毒麦」や「敵の仕業」とはイエス様がいない間にイエス様に敵対する者、即ち、神様やイエス様を受け入れない者の跳梁跋扈ちょうりょうばっこ*のことではないかと考えられます(13:28)。マタイ福音書が読まれた共同体の問題とはこのようなことであったのかも知れません。


* 「跳梁跋扈ちょうりょうばっこ」とは正しくない考え、不正、悪行が世の中に蔓延はびこさまを意味する。

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