一般に「マリアの賛歌」と呼ばれる結びは、
その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません(1:54)、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに(1:55)。
となっています。
どのような文章でも結論部分は非常に重要です。ここで「受け入れて」と訳された言葉は福音書の中でルカでしか用いられてないことから、ここに特徴的な理解が込められていると考えられます。語源的には“~に代わって”と“助ける”“引き受ける”“与える”の合成語です。これをヘブライ語に訳すると詩編の二箇所が思い起こされます。それらには、
主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め(詩編27:14)。
雄々しくあれ、心を強くせよ/主を待ち望む人はすべて(詩編31:25)。
とあります。
ここで「雄々しくあれ」がそれに相当します。つまりマリア様は“イスラエルの民が神様を固く信じているからこそ、神様はそれに応えて憐れみを決して忘れない”といった確信をもっておられたと思われます。それが神様を賛美する理由でもあり、マリア様の心の奥深くに刻み込まれたものでもあったと言えるでしょう。
であれば「その僕イスラエルを受け入れて」という句には単なる神様への賛美だけではなく、詩編を踏まえ神の民であるイスラエル全体が神なる主を待ち望むべきであるということが含まれていると言えます。この望みがマリア様の懐胎によって実現したからこそマリア様は賛美の結びとしてこの表現を使われたと考えられます。
続いて「憐れみをお忘れになりません」とあります。ここで“忘れない”と訳されていますが原語では否定形ではなく“覚えている”という意味の言葉が使われています。そこでこの言葉と「憐れみ」をヘブライ語に訳すると、それらが同時に使われている詩編が思い起こされます。そこには、
主よ思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを(詩編25:6)。
とあります。
ここでの“思い起こす”が「お忘れになりません」にあたり、“慈しみ”が「憐れみ」にあたります。詩編では「憐れみ」とありますが、これは原語では女性の“子宮”をも意味します。
であれば神様は女性がその胎の子どもを慈しむかのように憐れんでくださるという神様に対する非常に強い信仰と信頼があったと考えられます。このことについて改めて考えてみましょう。
この「憐れみ」には“同情”の意味もあります。これを考えるとやはり詩編が思い起こされます。そこには
神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか(詩編77:10)
とあります。直訳すると“神は人間の呼びかけを忘れたのか、怒りで神の憐れみが閉じられてしまったのであろうか”となります。これを踏まえるとマリア様にはイスラエルの民のすべてではないにしても、その一部の不信仰さのゆえに神様は御自分に呼びかける声に耳を傾けないことはなく、常に憐れみを注がれるという揺るぎない思いがあったものと思われます。
結びとして「わたしたちの先祖におっしゃったとおり」とあることから、旧約聖書のどこかにマリア様の祈りの結論となっているかのような箇所が見出せるものと思われます。それを考えるとそれ以前に語られた「憐れみ」という言葉が鍵となるでしょう。
そこで「アブラハムとその子孫」に対する憐れみを考えるとミカ書が思い起こされます。そこには、
どうか、ヤコブにまことを/アブラハムに慈しみを示してください/その昔、我らの父祖にお誓いになったように(ミカ7:20)。
とあります。
これが「マリアの賛歌」の中でどのような意味を持つのでしょうか。引用した箇所の直前には、
主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる(ミカ7:19)。
とあります。
であればアブラハムの子孫が犯す罪を神様は憐れみ、御自分の前にあってその咎を「とこしえに」を問うことがないと言えます。この「とこしえに」は原語でも最後に位置します。これをヘブライ語に訳すると詩編とエレミヤの預言が思い起こされます。まず詩編には、
わたしは申します。「天にはとこしえに慈しみが備えられ/あなたのまことがそこに立てられますように。」(詩編89:3)
とあります。ここでの「慈しみ」も「とこしえ」も先程引用した詩編と原語では同じです(詩編25:6)。
次にエレミヤの預言では、
遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ(エレミヤ31:3)。
とあります。
この言葉はバビロン捕囚からの解放を預言したものです。これを踏まえれば「主はわたしに現れた」にイエス様の誕生を重ねることができるでしょう。遠くにおられたかのような神様が民の救いの御業としてその御独り子を与えてくださったということが「マリアの賛歌」の核心ではないでしょうか。