主日の福音

2026年11月8日 【年間第三十二主日マタイ25:1-13】

「『十人のおとめ』のたとえ」の中で「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった」(25:13)、そして閉められた戸を開けて欲しいという彼女たちの訴えに対して主人は「『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた」とあります(25:3, 12)。

ここでそもそも「愚かなおとめ」とは何を意味するのかを改めて考えてみたいと思います。日本語では「愚かなおとめ」と訳されていますが、原語では「(神経が)鈍い」「愚鈍な」「愚かな」「馬鹿な」を意味する形容詞が名詞化されており、「おとめ」を意味する言葉はありません。

そこでこの「愚かな」をヘブライ語に訳して考えると詩編の中で特徴的に使われていることに気付きます。そこでは「神を知らぬ者」と意訳されているのです(詩編14:1; 39;9; 53:2; 74:22)*。であれば「愚かなおとめ」とはそのような者のことであり、「神などいない」と心の中で語る者を表象していると言えます(詩編14:1; 53:2;)。

つまり灯の油を用意していなかったことが「愚かな」と表現されているだけではないということです。その愚かさとは詩編を踏まえれば神様にとって忌むべき行いをするが御心に適かなう善を行わないことも意味していると言えるのではないでしょうか。このことは、

神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない(詩編14:1; 53:2)。

という箇所に見られます。

これを踏まえると「愚かなおとめ」の訴えを主人があからさまに拒否する理由が分かります。「神などない」と思い、御旨に反する行いをする者の訴えを神様は決して聞き入れることはないのです。まさに同じく詩編に見られるように、

あなたは、決して/逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず(詩編5:5)

なのです。

「花婿が到着して(中略)戸が閉められた」のなら(25:10)、即ち、イエス様が来臨し天の国が実現したのなら、神様に反する者がそこに入る余地はありません。この天の国の閉鎖性ゆえにイエス様は福音宣教にあたって「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われたのです(3:2)。イエス様と共に天の国は近づいたのですから、人は生きている間にしか福音を通じて悔い改めることが出来ません。こうしたことが「『十人のおとめ』のたとえ」の核心部分であると思われます。

* 新共同訳では「神を知らぬ者」となっているが他の訳では原語に則して「愚か者」と訳されている(新改訳2017、新改訳改訂3、口語訳)。また英語訳でも同じく“The fool”(NKJV)、“Fools”(TEV)と訳されている。

上述した通り、人は生きている間にしか福音を通じて悔い改めることが出来ません。しかしこのところこうした聖書解釈や正統的な教義理解に反する説が注目されることがあるようです。それは「セカンド・チャンス」と呼ばれる主張であり、その意味するところは文字通りキリストを知らずに死んだ者は死後の世界で再び福音を聞くことができるという考えです。

つまり福音を聞く二度目の機会が与えられることから、死後であっても回心する可能性は開かれているということになります。存命中と死後で福音を聞く機会が二度あるとするこの説によればイエス様を知らずに死んだ者や神様やイエス様を否定した者にも復活の可能性を認めていることになります。聖書的背景から導き出されているようですが、この考えはプロテスタント諸派の一部からのものであり、肯定派と否定派が存在するようです(使徒2:27, 31;フィリピ2:10-11;ペトロ一3:18-19;黙示録5:13; 20:12参照)。

人間の死を教義的に考えると人間とは人格をもつ存在として自らの行為に一貫して責任を取ることができる自由を備えた主体です。それゆえに死はその人の存在を生きてきたように決定するものであるとも言えます。正統信仰に於いて自由意志を与えられた人間はその生き方を問われる存在でもあります。

「『十人のおとめ』のたとえ」に既述した通り人は生きている間にしか福音を通じて悔い改めることができないということを読み込むことができるでしょう。つまり天の国が実現した暁にはその閉鎖性ゆえにそこから締め出されてしまった者が改めて主体的に福音を聞き、回心する可能性を見出すことはできないと言えます。重要なことは人間は神様やイエス様を通じてどのように生きてきたかが問われるということです。

聖書や信仰は死後の安易な安心感を与えるものではありません。信仰を生きる現実の厳しさに向けられる神様とイエス様の愛と慈しみを語っているのです。つまり神様やイエス様の愛と慈しみを逆手に取ったかのような慰めが語られているのではないのでこの意味でもイエス様を知らずに死んだ者、また積極的に否定した者の回心や復活の可能性を聖書から読み込むことはできないと言えます。実に安易なヒューマニズム*1を福音や教義に読み込むことによって正統信仰を歪めることになってしまうのです。

確かに日本人には二度目(次の機会)がないという感覚は受け入れ難いかも知れません。またおそらく好まないでしょう。しかし実は信じるということそれ自体がそもそも峻厳しゅんげんなものなのです。キリスト教の歴史上、万人救済説*2が現代に至るまで幾度となく焼き直しされて登場することも淵源えんげんは同じであると思われます。キリスト教の信仰の本質を見失わないためにも福音の聖書的なきちんとした理解が必要となるのです。

 

<補 足>

1.ヒューマニズム(humanism)

ヒューマニズムとは人間性を尊重し、それを損なう様々な規制や束縛、また権威等に基づく一方的な抑圧や制限からの解放を目的とする思想であると言える。留意しなければならないのはその規制や束縛また制限には根拠、即ち、正当性がある場合があるということである。それらの本質を見失ってはならない。現代の日本社会に於いてはこのヒューマニズムが「かわいそう」「気の毒に…」という感情に取り込まれているようにも思える。こうした安易なヒューマニズムの感覚が似非えせ福音的な価値観の裏付けとなってしまうのではないだろうか。

2.万人救済説

万人救済説とはオリゲネス(185~254)に基づく異端的考えである。

確かに使徒言行録にはイエス様が来臨する時には万物が新しくなるということが書かれているが(使徒3:21参照)、これは終末を迎える時、万物は創造の時と同じ完全な状態に復元されるということではない。

しかしこの説によれば原初の時と同じ状態に回復すると理解し、すべてのものが救われるという解釈に至ることもある。オリゲネスの正統的側面はイエス様がこの地上に再臨(来臨)する時に天・神の国が実現するというところにある。またそれは全ての被造物がキリストの支配に服従し、新しい天地が始まるということでもある(コリント一15:28参照)。これに対して異端的側面は最終的に悪人や悪霊さえも救われるという普遍救済に至るところにある。この考えはコンスタンティノープル公会議(543年)で教会が公式に退けた。

改めて、オリゲネス(185~254)とは現代の神学研究者たちに「オリゲネスによってキリスト教教義学が確立した」と言わせしめる古代教会に於ける最大の神学者である。しかし後の時代になると御子従属説的理解(イエス・キリストは父なる神の従位にあるという神の単一性原理を主張する説)により異端とされている。

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