主日の福音

2026年11月1日 【諸聖人マタイ5:1-12a】

イエス様は「憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける」と言われました(5:7)。日本語訳では「憐れみ」という同じ言葉が使われていますが、原語では異なります。この点に着目してみましょう。

まず最初の「憐れみ深い」ですが、この言葉は主に詩編で使われています(詩編86:15; 103:8; 111:4; 112:4; 116:5; 145:8)。特徴的なことは主なる神様について形容したものであり、「情け深い」「忍耐強い」「慈しみとまことに満ち」「恵みに富み」「憐れみに富み」「情け深い」といった言葉と一緒に使われているということです。であれば「憐れみ深い人々」とは神様の御心に適かなった生き方をしている人々のことを端的に表現していると考えられます。

次に「憐れみを受ける」は原語では未来形の受動態で表現されています。であればこの言葉を用いた神様への嘆願がどこかにあるはずです。このように考えると詩編にある、

呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください(詩編4:2)。

が思い起こされます(詩編4:2)。

これを踏まえると「憐れみ深い人々は」彼等の生き方のゆえに神様から憐れみを受け、その祈りを聞き入れてもらえるということです。だからこそこのような人々は「幸い」なのです。神様とは祈る人の正しさを認めてくださる方であり、苦難から解き放ってくださる方でもあるのです。

ところで二種類の「憐れみ」を訳した言葉が同時に一節の中で使われている旧約聖書の箇所はありません。しかし二節にわたってならそのような箇所が詩編の中に見られます。そこには、

まっすぐな人には闇の中にも光が昇る/憐れみに富み、情け深く、正しい光が(詩編112:4)。
憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる(詩編112:5)。

とあります(詩編112:4-5)。

原語では最初の「憐れみ」がイエス様の言葉の前句、次が後句の「憐れみ」に相当します。ここで先の詩編では「まっすぐな」と訳されていますが、原語には「相応ふさわしい」という意味もあります。

であれば「憐れみ深い人々」とは神様の御旨に適かなった生き方をしているのなら、たとえ闇の中のような日々にあってもその人には神様の「光が昇る」ということです。この「昇る」と訳された言葉は原語には「(突然)現れる」という意味があります。神様を信じるがゆえに信仰の闇に陥ることも少なくはありません。そのような時にあっても神様を信じ続けるのであれば神様の光が突然その闇の中で輝くのです。

また後の詩編の前半には「貸し与える人」と訳された言葉が見られますが、原語には「~に連なる」「~に愛着する」という意味もあります。であれば信仰がどんな状況にあっても神様に繋がるならばその人は「良い人」であると言えるのです。

後半では「言葉」と訳された言葉が見れますが、原語には「仕事」「業績」という意味もあります。であればイエス様が言われた「その人たちは憐れみを受ける」とは終末の「裁きのとき」に「支えられる」ということです。

この言葉は原語には「保持する」「支援する」という意味があります。つまり他者に対する憐れみを通じて神様と連なった生き方をする良い人は、終わりの時にその生き様ゆえに神様によって救われるために支援されるということです。このような人々をイエス様は「幸い」と言われるのです。

イエス様は「憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける」と言われました(5:7)。一読すると“他者を憐れむのであれば、その人は憐れまれる、即ち、憐れんだことの報いを受けることになる”といった意味で理解しがちです。しかしイエス様は「憐れみ」を言葉を変えて語られていることに着目し、それぞれの言葉が使われた意味を聖書的に見出そうとすることが必要であると思われます。

原語では異なる「憐れみ」が同時に使われている箇所は見られませんが、連続して使われている詩編箇所があります。「憐れみ」という言葉を個々にとっても一つの流れで捉えてもイエス様は“他者を憐れむから神様から憐れんでもらえる”といった応報主義的なことを語られたのではないと言えるのではないでしょうか。分かり易い言葉こそ旧約聖書を踏まえ注意深く読まなければならないのです。

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