サドカイ派の人々がイエス様に「言い込められた」と受動態に訳されていますが、原語では能動態で表現されています。この言葉には“黙らせる”“(家畜の口に)口篭をはめる”という意味があります。ということはイエス様にぐうの音すら出ないほど遣り込められたということでしょう。サドカイ派の人々にとってはさぞ屈辱的な体験だったと思われます。
また、たとえ論争に負けたとはいえ彼等に一目置いていたファリサイ派の人々はその後に一緒に集まったと考えられます。学派を越えた共通の敵を見出したのですからそれからの動きが早いのは当然でしょう。
この「言い込められた」をヘブライ語に訳しそれが使われた箇所を旧約聖書に求めるとエゼキエルの預言に行き着きます。そこには、
その日、わたしはゴグのために、イスラエルの中のよく知られている場所を墓地として与える。それは海の東の旅人の谷である。その墓は旅人の道をふさいでしまう。人々はそこにゴグとすべての軍勢を埋め、そこをゴグの軍勢の谷と呼ぶようになる(エゼキエル39:11)。
とあります。ここの「ふさいでしまう」がそれに相当します。これがどのように関係するのでしょうか。
引用した章の始まりにはメシェクとトバルの総首長ゴグが大軍を率いてイスラエルを責めるものの、神様が味方となった戦いで敗北はないということが預言されています(エゼキエル39:1)。確かにエゼキエルによれば、
人の子よ。メシェクとトバルの大首長である、マゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言せよ(エゼキエル38:2)。
とあります。
しかし、マゴクという地およびゴグという人物が実在したかは疑わしいと言われています(エゼキエル38:2)。実は意外なことにこの地名と人名は新約聖書ではヨハネの黙示録の中のみに見られます。つまりエゼキエルでもヨハネの黙示録でもこの地名と人名は何かを象徴する黙示文学としての話である可能性が高いということです。ヨハネの黙示録には、
この千年が終わると、サタンはその牢から解放され(黙示録20:7)、
地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い(黙示録20:8)。
とあります。ここでその内容から神様に反する者たちは集められ、その末路は天からの炎によって滅び去るといったことが語られています(黙示録20:9)。
神様に反する者たちの滅びを考えると先程引用したエゼキエルの預言を含む箇所の中で、
わたしは、わが民イスラエルの中にわが聖なる名を知らせる。わたしはわが聖なる名を二度と汚させない。そのとき、諸国民はわたしが主であり、イスラエルの中の聖なる者であることを知るようになる(エゼキエル39:7)。
このことは到来し、実現する、と主なる神は言われる。それは、わたしが語った日である(エゼキエル39:8)。
という二節が重要であると思われます。
であれば福音書を通じて神様がイスラエルの中で聖なる者であることはイエス様の到来によって改めて証しされ、原語では能動態であることからはそのことがイエス様によって起こされたと言えます。またこれらのことがイエス様の口を通じて強く語られたということです。このように考えられるとサドカイ派の人々が「言い込められた」内容が想像できます。
恐らく議論となっていたことはイエス様がマタイによる福音書の中で何度も語られる「世の終わり」、即ち、終末の到来と神様による贖い、また救いのことであると考えられるのではないでしょうか(13:39, 40, 49; 24:6; 28:20)。イエス様が語る終末についての話に彼等はまったく反論できなかったものと思われます。まさに「わたしが語った日」がイエス様の到来によって実現したのです。
そしてここに「『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。」とのイエス様の決め台詞とも言える言葉の意味を見出せます(3:2)。原語では“天の国は既に近づいた”と完了形で書かれています。まさにエゼキエルを通じて神様が「わたしが語った日」はイエス様と共に既に到来したのです。
また彼等は「一緒に集まった」とありますが、原語では受動態で表現されていることからイエス様の存在によって集められたということでしょう。つまりそれだけイエス様は宗教的権威者たちの中にあっても一目置かれ、その名が広まっていたということです。この言葉をヘブライ語に訳すると詩編が思い起こされます。そこには、
御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る(詩編104:29)。
とあります。ここで「取り上げられ(る)」がそれに相当します。これを踏まえると神様に反する者が集まって神様を信じる者を試そうとしたところで彼等は「息絶え/元の塵に返る」ことになるのです。