イエス様がユダヤ人たちに言われた「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」という言葉から(6:51)、「天からパンを降らせる」と主なる神が語ったパン(マナ)との比較ができます(出エジプト16:4b)。この言葉を受けて「それで、ユダヤ人たちは、「『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた」と続きます(6:52)。
このことについてパン(マナ)との関係で別の視点から考えてみようと思います。そこで、イエス様が語られた“肉を我々に食べさせる”という表現に着目しましょう。「肉」と「食べる」をヘブライ語に訳し、それらが同時に使われた箇所を旧約聖書に求めると民数記に行き着きます。そこには、
この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。彼らはわたしに泣き言を言い、肉を食べさせよと言うのです(民数記11:13)。
とあります。これはマナが与えられる前提となる神様に対するモーセの訴えです。この節がどのように関係するのか考えてみたいと思います。
出エジプトの民は過酷な旅路にあってモーセと神様の導きに大きな疑問をもったことでしょう。それほどまでに飢えとは生きるにあたって信仰や理性をも失わせかねない出来事と言えます。しかし神様はマナを天から降らせてくださったことにより民に旅を続けるための命の糧を与えてくださいました。それは出エジプトが神様の御旨であることの証明でもあったのです。
おそらくユダヤ人たちは人間の命を永遠に生かすパンがこの地上のどこにあるというのかと強い調子でイエス様に訴えたことでしょう。彼等の目の前に存在するイエス様は人間であり、「天から降って来た生きたパン」には到底思えません。もしかしたらイエス様の言葉は彼等にとって出エジプトでの神様の御業を馬鹿にしているかのように聞こえたかもしれません。
しかしイエス様は神様を信じるユダヤ人は生来、神様からの命を生かすパンを必要としているということを言葉の裏で語ろうとされたとも考えられます。そこで彼等はそのパンについて「互いに激しく議論し始めた」のです。議論である以上、彼等の中にはイエス様をモーセの生まれ変わりのように考えていた者やそのような言葉を口にする者がいたのかも知れないということです。
そこで、「議論し(た)」と訳された言葉をヘブライ語に訳すると詩編が思い起こされます。そこには、
主よ、わたしと争う者と争い/わたしと戦う者と戦ってください(詩編35:1)。
わたしに代わって争いわたしを贖い/仰せによって命を得させてください(詩編119:154)。
とあります。これらでの「争い」がそれにあたります。
このことを考えるとイエス様を認める者たちと反対する者たち、またおそらく中庸な者たちがいたということです。それはイエス様が自分たちを<ruby>贖<rt>あがな</rt></ruby>い、神様の命を得させてくださると信じる者とそうでない者とが存在したということでもあります。確かに最終的にイエス様は御受難を経て十字架上での死を迎えます。「死刑の判決を受ける」と題された一連の箇所を読むとすべてのユダヤ人たちがイエス様に敵対する者ばかりであったかのように読めてしまうものです(18:38c-19:16)。
しかしユダヤ人たちのすべてが同じように考えていたとは言えません。伝統的な宗教規定に生きる者たちの中にあってもイエス様の御言葉、また御業を通じて神様の御旨を理解し始めた者もいたということを「議論」と訳された言葉に見出せるのではないでしょうか。
「ユダヤ人たちは『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた」とあります(6:52)。現実的に考えればその通りでしょうが、後にイエス様はパンとぶどう酒を御自分の体と血として制定*1されました。
神の独り子が人間となり、そればかりか御自分の体であるパンを食べることによって人々を救おうとされていることを福音記者ヨハネはユダヤ人たちの言葉に含めていると言えるのではないでしょうか。それは罪人である人間、即ち、イエス様を神の独り子として認めない者であっても御自分に近づくことを許されるといったイエス様の愛の具体的な行為でもあると言えます。ユダヤ人たちの議論は現代にも通じるこの結論に至る過程と言えるかもしれません(聖体論争を参照*2)。
福音書は旧約聖書を下敷きとしたものであり、そこから読み解く必要があります。それだけではなくギリシア語を話すユダヤ人のために書かれたものです。それゆえにイエス様の言葉は旧約聖書から<ruby>繙<rt>ひもと</rt></ruby>いて考えてみる必要があるのです。「聖書読みの聖書知らず」にならないように福音書の一節であっても全体から、話の流れから、またそれ自体から読み解こうとしたいものです。
*1 制定とは
イエス様は過越祭を前に弟子たちと共に最後の晩餐をなさいました。この時に用いたパンとぶどう酒をご自分の体と血として定められたと考えられます。これをカトリックの教えでは「制定」と言います。
*2 「聖体論争」について
聖餐に関する記述(パンを裂くこと)はパウロの手紙に見られることから西暦50年代に各地で聖餐式が祝われ、その儀式が定着化していたことが<ruby>窺<rt>うかが</rt></ruby>えます(使徒2:42, 46:20:7, 11;Ⅰコリント10:16-17; 11:17-34参照)。古代から聖体に於けるキリストの現存が信じられて来ました。中世になるとパンとぶどう酒の中に主イエスが現存することが教会の教えとなり、信じるべき真理となりました。つまり聖体は秘跡中の秘跡であり、キリスト者の生活の中心となったのです。カトリックでは公会議を通じてパンとぶどう酒の形質はそのままであるが、実体が変化すると教義化しました(Ⅱリヨン、フィレンツェ、トリエント公会議)。この理解はアリストテレス哲学に基づくものです。それによれば物質はsubstantiatio(何であるか、その意味、本質)とaccidentia(偶有的なもの)からなるものとされ、このことからエウカリスチアはaccidentia(パンとぶどう酒という外見)は変わらないが、substantiatio(本質・実体)が変わると説明されるようになったのです。