主日の福音

2026年6月21日 【年間第十二主日 マタイ10:26-33】

今日の福音の冒頭でイエス様は「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」と言われました(10:26)。ルカ福音書でも「人々を恐れてはならない」以下は全く同じことを語られています(ルカ12:2)。

しかしルカではファリサイ派の人々のパン種に注意するようにとの脈絡の中にありますが、マタイでは自分たちが人々によって脅威に晒されることを前提にされていると考えられます。このことはイエス様がこの直前で弟子たちに迫害の予告をされていたことから明らかです。

であればイエス様は弟子たちに神様のことを正しく伝えているのだから「人々を恐れてはならない」と言われたのでしょう。つまり弟子たちを勇気づけているのです。神を信じる民といえども、その正しさが受け入れられないのが現実であったと思われます。

この「恐れてはならない」という表現をヘブライ語に訳し、それを旧約聖書に求めると神様との関係で何度も使われていることが分かります。であればイエス様の言葉はそれらのどこかを踏まえていると考えられます。

さて「覆われているもの」をヘブライ語に訳すると詩編が思い起こされます。そこには、

神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています(詩編63:2)。

とあります。「覆われているもの」はここでの「渇き果てています」がそれに相当します。これに続いて「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み/あなたの力と栄えを見ています」とあることから(63:3)、神様に祈りをもって渇望することは神様の力と栄光を見ることにつながるということです。つまり「覆われているもの」とは“隠されている物事”ではなく、現実の中で理解できない神様の御心のことではないでしょうか。

このことは「現され(る)」というついの言葉から明らかとなります。これをヘブライ語に訳すると、やはり詩編に行き着きます。そこには、

主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し(詩編98:2)

とあります。ここでの「現し」がそれに相当します。先の詩編を踏まえると神様への切なる祈りは救いとなり、恵みの御業は彼等に現われるということが込められていると考えられます。

また「隠されているもの」をヘブライ語に訳するとイザヤの預言が思い起こされます。そこには、

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた(イザヤ53:3)。

とあります。ここでの「隠し」がそれに相当します。

イザヤの53章は御存知の通り「苦難の僕」についての話です。弟子たちはこのイエス様の言葉からすぐにこの話を思い出したことでしょう。そしてイエス様と共に旅を続けるとしたら、神様やイエス様までもが自分たちに顔を隠されるかも知れないと思ったかも知れません。弟子たちは誰も「苦難の僕」のような生き方は望まなかったはずです。しかし箴言には、

完全な道を歩む人は安らかに歩む。道を曲げれば知られずには済まない(10:9)。

とあります。この節と先程のイザヤを踏まえるなら、たとえ人々から軽蔑され、見放され、痛みや病を抱えようとも、もしその人が神様を信じる者であればそれは「完全な道を歩む人は安らかに歩む」かのようなものです。福音宣教の旅にあたってイエス様は弟子たちにこのようなことを語り、鼓舞されようとなさったのではないでしょうか。

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